
排気ガス規制の話になると、よく「地球環境のためだから仕方ない」という空気になります。
私も最初は、そう思っていました。
排気ガスをきれいにすることは大切です。
CO2を減らすことも大切です。
これからの時代、バイクだけが例外でよいとは思いません。
ただ、いろいろ考えていくと、どうも腑に落ちないところがあります。
本当に環境のためなら、話の軸は一貫しているべきです。
ところが実際には、国の都合、行政の都合、メーカーの都合、海外基準との整合性などが入り混じり、結果として一番小さく、生活に根ざしていた原付や小型バイクが追い込まれているようにも見えます。
2サイクル原付に問題があったことは否定できない
まず、昔の2サイクル原付に問題がなかったとは思いません。
後ろを走ると煙たかった。
オイルの焼ける臭いがした。
白煙が出る車両もありました。
乗り方によっては騒音もありました。
2サイクルエンジンは構造上、未燃焼ガスやオイル由来の排出が出やすく、都市部の大気環境や健康被害の面で問題視されたのは理解できます。
実際、二輪車の排出ガス規制は、原付一種・軽二輪では1998年10月から、原付二種・小型二輪では1999年10月から導入されたとされています。環境省資料でも、その時期から規制対応車として扱う整理がされています。
ですから、排気ガス規制そのものが不要だったとは思いません。
昔の原付がすべて良かった、という話でもありません。
問題はその先です。
排気ガスをきれいにする必要があった。
それは分かる。
しかし、その過程で、原付が本来持っていた
安く、軽く、気軽に使える生活の足
という価値まで失われてしまったのではないか。
そこに今の違和感があります。
排気ガスがきれいなことと、環境負荷が小さいことは同じではない
排気ガス規制で主に見られるのは、CO、HC、NOx、PMなどの有害成分です。
これは大気汚染や健康被害に関わるものなので、減らす必要があります。
ただし、CO2、つまり二酸化炭素の問題は少し違います。
CO2は、基本的には燃やした燃料の量に関係します。
どれだけ排気ガスをきれいにしても、大きく重い車体を動かし、多くの燃料を使えば、その分CO2は出ます。
ここが、どうも見落とされがちではないでしょうか。
1人が近所へ買い物に行く。
通勤で数km移動する。
ちょっとした用事を済ませる。
そのために、1トンを超えるクルマを毎回動かす。
エアコンを使い、大きなタイヤを転がし、大きな車体を駐車場に停める。
これは便利ではあります。
でも、環境負荷という意味では、かなり大きな道具を使っていることになります。
同じ家の中で考えれば、小さな部屋を暖めるために、大きなストーブをガンガン焚いているようなものです。
一方、原付や小型バイクは、人ひとりを近距離へ運ぶには非常に合理的な道具です。
車体は小さく、軽く、燃料も少なく、駐車スペースも取りません。
排気ガスの成分だけを見るのではなく、
そもそもどれだけ大きなものを作り、どれだけ大きなものを動かしているのか。
この視点も必要ではないでしょうか。
4輪車は大きく増えた。その一方で原付は追い込まれた
ここでどうしても腑に落ちないことがあります。
原付の排気ガスは問題視され、規制が強化され、4サイクル化され、さらに厳しい基準へ対応していきました。
その一方で、4輪車の保有台数は大きく増えています。
自動車検査登録情報協会の長期推移資料では、自動車全体の保有台数は1980年の約3,733万台から、2025年には約8,270万台へ増えています。乗用車だけで見ても、1980年の約2,275万台から、2025年には約6,206万台へ増えています。つまり乗用車は約2.7倍です。
もちろん、時代も生活も変わりました。
クルマが必要な場面が増えたことも分かります。
家族で移動する。
荷物を運ぶ。
雨の日に使う。
長距離を走る。
仕事で使う。
クルマにしかできない役割はあります。
しかし、本当に環境負荷を考えるなら、
小さな原付の排気ガスだけでなく、
大きな車体をどれだけ作り、どれだけ走らせ、どれだけ燃料を使っているのか。
そこまで含めて考えるべきではなかったのでしょうか。
小さな乗り物には厳しい目が向けられ、
一方で、社会全体が4輪中心へ進んでいくことには、あまり疑問が向けられなかった。
そこに、政策や社会の見方の偏りを感じます。
これは「誰かが意図的に原付をなくした」と言いたいわけではありません。
ただ、結果として見ると、安価で小さく、少ない燃料で動いていた生活の足が追い込まれ、より大きく重い乗り物が当たり前になっていった。
それが本当に環境にやさしい流れだったのか。
そこには、どうしても疑問が残ります。
運輸部門のCO2の中で、自動車の影響は大きい
国土交通省の資料では、2024年度の日本全体のCO2排出量は9億7,148万トン。そのうち運輸部門は1億8,719万トンで、全体の19.3%を占めています。さらに運輸部門の中で、自動車全体は85.6%を占めています。つまり、クルマの使い方は、日本のCO2排出を考えるうえでかなり大きな問題です。
だからこそ、
「排気ガスがきれいか」だけではなく、
「そもそもその移動に、そんなに大きな乗り物が必要なのか」
という視点が必要だと思うのです。
昔は、地方の家庭にはよくこういう形がありました。
家にクルマが1台。
それとは別に原付が1台。
原付は趣味のバイクというより、生活の足でした。
買い物、通勤、配達、駅までの移動、近所の用事。
クルマを出すほどではないけれど、歩くには遠い。
そういう距離を原付が支えていました。
今は、その役割までクルマに置き換わっている場面が増えています。
道路の広さは昔とそれほど変わっていない場所も多いのに、そこを走るクルマは増え、交通は複雑になっています。
ただ、この話はまた別の機会に詳しく書きたいと思います。
今回言いたいのは、そこではありません。
問題は、環境のためと言いながら、小さく軽く、少ない燃料で動く乗り物が、排気ガス規制やコストの中で成立しにくくなっていることです。
原付は「安価な生活道具」として求められていた
原付は、高級商品ではありませんでした。
趣味性の高い大型バイクとも違います。
安い。
軽い。
燃費がいい。
置き場所を取らない。
維持費が安い。
ちょっとした移動に使える。
そういう価値で成り立っていた乗り物です。
高性能である必要はありません。
豪華である必要もありません。
必要十分であることに価値がありました。
ところが、排気ガス規制への対応、4サイクル化、インジェクション化、触媒、各種制御、認証コストなどによって、メーカー側のコストは上がっていきました。
一方で、原付の販売台数は減っていきました。
販売台数が十分にあれば、専用エンジンや専用車体を維持できたかもしれません。
しかし、市場が縮小していく中で、日本独自に近い50cc市場のためだけに、規制対応した車両を作り続けることは難しくなっていったのでしょう。
つまり原付は、単に人気がなくなって自然に消えていっただけではないと思います。
安価な生活道具として求められていたにもかかわらず、規制対応によって安価な道具でいられなくなり、結果として消滅に追いやられた。
そう言えるのではないでしょうか。
50ccで足りていたものを、125ccベースにしなければならない違和感
原付一種については、2025年11月から新たな排出ガス規制が適用され、現行の50cc以下の車両は2025年10月末をもって生産終了となります。その受け皿として、50cc超125cc以下で最高出力4.0kW以下に制御した車両が、原付免許で運転できるようになりました。
制度としては理解できます。
50ccのまま新しい排気ガス規制に対応するのは、技術的にもコスト的にも難しい。
世界で多く売られている125ccベースの車両を使ったほうが、メーカーとしても現実的です。
表向きには「排気ガス規制への対応」という説明になります。
もちろん、それは事実でしょう。
しかし、その裏側には、
売れる台数が減った50ccを、上がり続ける規制対応コストの中で維持することが、商品として成り立ちにくくなった
という現実もあったのではないでしょうか。
メーカーとしては、海外で大量に販売されている125cc系のエンジンや車体に統一したほうが合理的です。
部品、開発、生産、認証、補修部品の維持まで考えれば、その判断は理解できます。
しかし、生活の道具として見ると、ここに大きな違和感があります。
50ccで足りていた移動のために、125ccベースの車体を用意する。
しかも原付一種として使うために、出力は4.0kW以下に抑える。
50ccで足りていたものを、わざわざ125ccベースにして出力を抑える。
これは生活の道具として見ると、どこか本末転倒にも感じます。
小さなストーブで十分だった部屋に、大きなストーブを持ち込んで、火力だけ絞って使うようなものです。
排気ガス規制の軸は、本当に一貫しているのか
もともとは、私も「地球環境のためなら仕方ない」と思っていました。
排気ガスをきれいにする。
CO2を減らす。
環境負荷を小さくする。
その目的が本当に一貫しているなら、ある程度は納得できます。
しかし、現実を見ていると、どうも軸が一貫していないように感じます。
大きなクルマを1人で毎日動かすことには、あまり疑問が向けられない。
一方で、小さく軽く、少ない燃料で町を動いていた原付には、厳しい規制がかかる。
海外基準に合わせる必要があるという話も分かります。
メーカーが世界で販売する車両と共通化しなければならない事情も分かります。
行政が大気環境を守ろうとすることも分かります。
でも、その結果として、一番小さく、生活に根ざしていた乗り物が成立しにくくなっていく。
これが本当に環境のためなのか。
そこに、どうしても納得しにくいものがあります。
バイクはシンプルだから価値がある
バイクの良さは、シンプルなところにあります。
小さい。
軽い。
燃料をあまり使わない。
置き場所を取らない。
人と機械の距離が近い。
必要最小限の構造で、人ひとりを必要な場所へ運べる。
これがバイクの素材の良さです。
もちろん、安全装備や排気ガス対策は必要です。
ABSやインジェクション、灯火類、排気ガス浄化装置には意味があります。
しかし、何でもかんでも足せばよいわけではありません。
料理で言えば、素材は良いのに、味付けをどんどん足していくようなものです。
ソースをかけ、香辛料を足し、飾りを乗せ、さらに調味料を加える。
結果として、もともとの素材の味が分からなくなる。
バイクも同じです。
本来は、小さく軽く、気軽に使えることに価値がある。
そこに規制対応、装備追加、コスト上昇、車体の大型化が重なっていくと、道具としての良さが失われてしまいます。
50ccや小型バイクの価値は、豪華さではありません。
速さでもありません。
必要十分であることです。
町からバイクが消えていく過程を、現場は見てきた
国内二輪車の販売台数は、1982年度の327万台をピークに減少傾向となり、2024年の二輪車販売台数は36万8千台となっています。ピーク時と比べると、約10分の1に近い水準です。
これは単なる数字ではありません。
町からバイクが消えていったということです。
昔は、家の前にも、商店の横にも、職場の駐輪場にも、原付が普通にありました。
お父さんが通勤に使う。
お母さんが買い物に使う。
学生が通学に使う。
商店が配達に使う。
農家や地域の人が、ちょっとした移動に使う。
原付は、町の生活の中にありました。
ところが今は、クルマばかりです。
家庭の中の2台目、3台目の足までクルマになっていく。
原付は少しずつ姿を消していく。
その過程を、バイク屋は現場で見てきました。
だから腹が立つのです。
単に「50ccがなくなるから寂しい」という話ではありません。
小さく、安く、軽く、必要十分だった生活の足が、環境という大義名分の中で、いつの間にか社会から押し出されていく。
その一方で、1人移動に大きなクルマを使うことは、当たり前のまま残っている。
これで本当に環境対策と言えるのでしょうか。
本当に考えるべきこと
これは、原付を売りたいという話ではありません。
特定の乗り物をすすめたいという話でもありません。
本当に考えるべきなのは、
移動手段を用途に合わせて選ぶ
ということだと思います。
歩いて行けるなら歩く。
自転車で足りるなら自転車。
公共交通が使えるなら公共交通。
クルマが必要な場面ではクルマ。
そして、1人で近距離を移動するだけなら、小さく軽い乗り物が合理的な場面もある。
本当に環境を考えるなら、
「排気ガスをどれだけきれいにするか」だけでは足りません。
その移動に、どれだけ大きな乗り物が必要なのか。
その乗り物を作るのに、どれだけ資源を使うのか。
走らせるのに、どれだけ燃料を使うのか。
道路や駐車場を、どれだけ占有するのか。
ここまで考えるべきではないでしょうか。
家族で移動するならクルマ。
荷物を運ぶならクルマ。
長距離や悪天候ならクルマ。
それは当然です。
しかし、1人で近所へ行く。
通勤する。
買い物へ行く。
町の中を少し移動する。
そのような用途なら、原付や原付二種、小型バイクは非常に合理的な道具だったと思います。
バイクを無条件に増やせと言いたいわけではありません。
事故のリスクはあります。
安全教育も必要です。
ヘルメットやプロテクター、速度管理、交通ルールへの意識も大切です。
ただ、危ないから減らせ、規制だから仕方ない、というだけで済ませてよいのでしょうか。
町の中から小さな乗り物を消しておいて、環境を語る。
1人移動に大きなクルマを動かしながら、省エネを語る。
小さく合理的な乗り物を成立しにくくしておいて、地球環境のためだと言う。
そこには、どうしても違和感があります。
50cc原付や小型バイクは、ただの古い乗り物ではありません。
町の生活を支えてきた、必要十分な道具でした。
その価値を失ってから、
「あれは本当は合理的だった」
と気づくのでは遅いと思います。
環境のためというならなおさら、
大きな乗り物をどれだけきれいにするかだけでなく、
そもそもそんなに大きな乗り物が必要なのか
という問いを、もっと真剣に考えるべきではないでしょうか。