レース国際A級という肩書きより、そこまでの泥だらけの時間が今につながっている

(#19が私、1991年IA1年目)

昔のレースの話を書くと、どうしても自慢話のように聞こえるかもしれません。

でも、自分としては「俺はすごかった」という話をしたいわけではありません。

むしろ、何度も跳ね返されて、うまくいかなくて、それでも考え続けるしかなかった時間の方が、今の自分を作っていると思っています。

バイクに乗っている人にも、いろんな方がいます。

仕事で責任を背負っている人。
若い頃にスポーツを本気でやっていた人。
今も趣味や競技に打ち込んでいる人。
家族のために毎日踏ん張っている人。
自営業で、毎日いろんな判断をしながら頑張っている人。

そういう方なら、

「結果だけ見れば簡単そうに見えるけれど、実際にはそこに行くまでが本当に大変だった」

という感覚は、少しわかってもらえるかもしれません。

自分にとって、それがモトクロスでした。

私は以前、モトクロスで国際A級として走っていました。

そう言うと、順調にそこまで上がっていったように見えるかもしれません。

でも実際には、そんなきれいなものではありませんでした。

九州ではやれていた。でも全国は違った

自分は、同年代のライダーに比べて、特別に飛び抜けた才能があったタイプではなかったと思います。

ただ、九州の中では、そこそこやれていた方だと思います。

当時はジュニア、今でいうNAクラスに特別昇格で上がることもできました。
九州のレースでは、それなりに前の方で走れていた感覚もありました。

だから、自分の中にも、

「もっと上でやれるのではないか」

という気持ちは当然ありました。

国際B級に上がった最初の年には、地元大分のアフリカンサファリで4位になったこともあります。

アフリカンサファリのコースは、地元でいつも走り込んでいたコースでした。
ラインもわかる。
路面の変化もある程度わかる。
どこで頑張ればいいかも、体に入っている。

だから今思えば、かなり地元有利だったのだと思います。

ただ、当時の自分は若かったので、そこまで冷静には考えていませんでした。

「俺、実はけっこうすごいんじゃないか?」

そんな感覚も、正直ありました。

地元で結果が出ると、自信になります。
もちろん自信は大事です。

でも、その自信が全国でそのまま通用するかというと、話は別でした。

九州を出て全日本に行くと、そこには同じように自信を持ったライダーが全国から集まっていました。

地元のコースを知り尽くしたライダー。
毎週のように走り込んでいるライダー。
ファクトリー入りを狙う若い選手。
自分よりもっと強い環境で揉まれてきたライダー。

そこで初めて、地元で速いことと、全国で勝つことは違うのだと感じました。

でも、不思議とそれは嫌な感覚だけではありませんでした。

全国に出ることで、いろんなコースを知りました。
見たことのない路面、走ったことのないレイアウト、九州とは違う空気。
そして、いろんなすごいライダーを目の前で見ることができました。

「俺はまだまだだ」

そう思いました。

でも同時に、

「俺もまだやれるんじゃないか」

とも思っていました。

自分より速いライダーがいる。
自分の知らないコースがある。
自分の知らない走り方がある。

それはショックでもありましたが、同時に面白さでもありました。

もしそこで、ただ自信をなくしただけなら、続けていなかったかもしれません。

でも、まだ届かないだけで、絶対に無理だとは思っていなかった。

その感覚があったから、苦しくても全日本を回り続けたのだと思います。

何が足りないのかを考え続けた時間

全国に出て、自分より速いライダーをたくさん見ました。

そこで考えるようになりました。

何が足りないんだろう。
どうやったら速くなれるんだろう。

普通に考えれば、大分の田舎から全日本に出ていって、予選落ちで帰ってくるだけでもおかしくありません。

全日本が開催されるコースに、普段から練習に行けるわけではない。
相手はそのコースを何度も走っている。
こちらは遠征して、短い公式練習でコースを覚えて、すぐ予選を走る。

条件だけ見れば、不利なことは多かったと思います。

でも、

「だから仕方ない」

で終わりたくはありませんでした。

では、何ができるのか。

当時の自分なりに、いろいろやりました。

全日本の国際A級のレースビデオを、何度も何度も見ました。

速いライダーがどこでアクセルを開けているのか。
どこで立って、どこで座っているのか。
ジャンプの入り方。
コーナーのライン。
轍の使い方。
スタート後の位置取り。

今のように、簡単に動画を見られる時代ではありませんでした。
だからこそ、手元にあるビデオは本当に貴重でした。

同じ映像を繰り返し見ながら、頭の中で何度も走りました。

体力も必要だと思い、毎日ランニングもしました。
ジムにも通いました。

モトクロスは、ただバイクに乗るだけの競技ではありません。

腕力だけでもありません。
心肺機能、下半身、体幹、集中力、最後までミスをしない粘り。

レース後半で体が動かなくなれば、どれだけ気持ちがあってもペースは落ちます。

だから、少しでも最後まで走れる体を作ろうとしていました。

メンタルトレーニングの本も読みました。

スタート前の緊張。
予選で落ちたら終わりというプレッシャー。
転倒した後の気持ちの立て直し。
速いライダーに囲まれたときの焦り。

そういうものに飲まれないためには、気持ちの作り方も必要だと思っていました。

今思えば、どこまで正しくできていたかはわかりません。

でも、何もしなかったわけではありません。

足りないなら、足りないなりに考える。
不利なら、不利なりに工夫する。
環境がないなら、今ある材料でどうにかする。

それが当時の自分にできる精一杯でした。

そして、そうやってもがいた時間が、今になって大きかったと思います。

ただ速い人を見て、

「すごいな」

で終わるのではなく、なぜ速いのかを考える。
自分には何が足りないのかを考える。
どうすれば少しでも近づけるのかを考える。

その癖は、今の仕事にもつながっています。

お客様のバイクを見ても、

「なぜこう感じるのか」
「どこを変えればよくなるのか」
「この人には何が合っているのか」

そういうことを考える土台は、あの頃に作られたのかもしれません。

20歳で、続けるかやめるかを考えていた

当時の自分は、まだ20歳の頃でした。

今から振り返れば若いのですが、当時の自分にとっては、モトクロスを続けるかどうかはかなり大きな問題でした。

というのも、モトクロスは本当にお金がかかる競技です。

当時は125ccと250cc、2台のバイクを用意するのがほぼ必須でした。

車両そのものだけでなく、エンジン部品、外装、タイヤ、チェーン、スプロケット、ブレーキまわり、サスペンションのメンテナンス。

転べば壊れますし、走れば消耗します。

それに加えて、ヘルメット、ブーツ、プロテクター、ウェアなどの用品代もかかります。

さらに全日本を回るとなると、遠征費が大きい。

高速代、フェリー代、燃料代、宿泊費、食事代。

九州から中部、関東、東北、北海道へ行くとなれば、移動するだけでも大変です。

たぶん、他のライダーも同じだったと思います。

本気で続けようと思えば、時間も体力も使いますが、それ以上にお金も使います。

今考えると、家が何軒か建つのではないかと思うくらいのお金がかかっていた気がします。
もちろん正確に計算したわけではありませんが、それくらい大きな負担でした。

だからこそ、結果が出ないまま続けることには重さがありました。

この年でダメだったら、もうきっぱりやめる。

親にも、そう話していました。

それは単に「気持ちが切れたらやめる」という話ではなく、これ以上、家族にも負担をかけられないという思いもありました。

レースを続けるには、お金も時間もかかる。
遠征もある。
ケガのリスクもある。
結果が出ないまま続けていいのか。

20歳なりに、かなり追い込まれていたのだと思います。

150台出て、昇格に意味があるのはわずか15台

当時の国際B級は、本当に厳しい世界でした。

参加台数も多く、たとえば150台ほどがエントリーして、決勝を走れるのは30台ほど。

つまり、残りの120台は予選だけで終わります。

しかも予選は、たった4周ほど。

九州から北海道まで遠征して、何日もかけて準備して、移動して、お金も時間も体力も使って、それでも予選で残れなければ、そこで終わりです。

たった4周走って、さよなら。

しかし、厳しいのはそれだけではありません。

仮に30台の決勝に残れたとしても、ポイントがつくのは15位まででした。

国際A級への昇格を考えると、16位以下は、予選落ちとほとんど変わりません。

もちろん、決勝を走れた経験には意味があります。

日曜日の朝、決勝前の公式練習を走れるのは、厳しい予選を勝ち抜いたライダーだけです。

150台ほどいた中から、決勝に残った30台だけ。

その中に自分がいる。

決勝でどうなるかは、まだ分かりません。
スタートで失敗するかもしれない。
転ぶかもしれない。
ポイントに届かないかもしれない。

でも、その日曜朝の公式練習のコースに入る時点で、

「ここまでは来た」

という感覚がありました。

前日に帰っていったライダーがたくさんいる中で、自分はまだこの場所に残っている。

それは、順位表に残る結果とは別の意味で、間違いなく自分を奮い立たせるものだったと思います。

ただし、そこで満足していたら上には行けません。

決勝に残っただけでは足りない。
ポイントを取らなければ、昇格にはつながらない。

その喜びと厳しさが、同時にあったのが当時の国際B級だったと思います。

ランキングを上げる、昇格を目指すという意味では、ポイントが取れなければ結果として何も残らない。

150台走って、昇格に直接意味のある結果を残せるのは、わずか15人。

割合で言えば、たった1割です。

150台の中で、本当に意味のあるところまでたどり着けるのは、ほんの一握り。

これが当時の国際B級の厳しさでした。

参加台数が多いということは、ただ人数が多いというだけではありません。

それだけ層が厚いということです。

地元のコースを知り尽くした地元スペシャリスト。
毎週のように走り込んでいる速いライダー。
ファクトリー入りを狙う予備軍のような若い選手。
メーカーやショップの期待を背負ったライダー。

そういう人たちを相手にして、まず決勝に残らなければならない。

そして決勝に残っただけでも足りない。

勝つ以前に、ポイント圏内に入ること自体が大変でした。

九州から全日本を回るという厳しさ

さらに、九州から全日本を回るというのは、やはり簡単なことではありませんでした。

これは言い訳として言いたいわけではありません。

その条件の中で結果を出す人が、本当に強い人です。

ただ、現実として、九州は遠い。

全日本選手権が開催されるコースの多くは、中部、関東、東北、北海道。

九州から見ると、どこも本当に遠い場所でした。

地元のライダーなら、

「ちょっと練習に行ってくる」

ということができるコースでも、九州からだとそうはいきません。

しかも、そこで同じレースを走る速いライダーたちは、当然そのコースで練習しています。

何度も走り、路面の変化を知り、ジャンプの飛び方、轍の付き方、スタート後の流れまで体に入れている。

こちらは全日本があるからといって、簡単にそのコースへ練習に行けるわけではありません。

でも本番では、そういうライダーたちと同じ組で予選を走ります。

時間もかかる。
お金もかかる。
簡単に何度も走りに行ける距離ではありません。

でもレースになれば、そんな事情は関係ありません。

公式練習は、たとえば10分ほど。

その短い時間でコースを見て、路面を見て、ラインを探して、ジャンプの感覚をつかむ。

そして予選では、そこを走り込んでいるライダーたちと同じ土俵で勝負しなければなりません。

こちらにとっては初見に近いコースでも、相手にとっては庭のような場所。

それでも予選では、同じスタートラインに並ぶしかありません。

たとえるなら、カラオケ大会のようなものかもしれません。

相手は課題曲を前から知っていて、何度も練習してきている。
どこで息を吸うか、どこで声を張るか、どこで外しやすいかまで分かっている。

こちらは会場に行って初めて課題曲を知る。
少しだけ聴いて、すぐ本番で歌う。

それでも点数は同じ基準でつけられる。

モトクロスも同じで、知らないコースだからといって、予選で待ってもらえるわけではありません。

短い公式練習の中で、どれだけ早くコースを覚えて、どこまで攻められるか。

そこも含めて勝負でした。

SUGOは嫌いなコースではありませんでした。
むしろ嫌いではなかった。

でも、ただの一回も練習に行ったことはありません。

それでも本番では、そこで速い人たちと同じ条件で走らなければならない。

もちろん、それがレースです。

だからこそ、国際B級の頃は、ただ速いだけでは足りませんでした。

知らないコースに短時間で対応する力。
少ない練習で感覚をつかむ力。
スタートで前に出る力。
ミスを最小限にする力。
そして、遠征そのものを続ける体力と気力。

そういうものを全部含めて、結果が求められる世界でした。

翌年はゼッケン2番をつけて走りました。

ゼッケン2番というと、聞こえはいいかもしれません。
でも要するに、前年に国際A級へ上がれなかった2番目ということです。

あと少しのところにいたようで、でも上がれなかった。

そのゼッケンをつけて走った年も、パッとしませんでした。

さらに3年目はゼッケン6番。

しかし開幕前のヤマハの合宿で骨折してしまい、3戦ほど走れませんでした。

これでまた流れが悪くなりました。

そして4年目。

ゼッケンは19番。

最初の頃から見れば、順調に上がっていったというより、全国の壁に何度も跳ね返されていた時期だったと思います。

最終戦オートポリス。スタート直後に大転倒

そして4年目の最終戦。

自分が国際A級入りを決めたレースは、地元のオートポリスでした。

このレースでダメだったら、もうやめる。

そう決めていたレースです。

ところが、その大事な肝心のレースで、スタート直後に大転倒しました。

フェンダーが折れるほどの転倒。

当然、順位はほぼ最下位です。

30台ほどいる中で、完全に最後尾からの再スタートでした。

その瞬間、自分の中では、正直「終わった」と思いました。

4年やってきて、最終戦。
これでダメならやめると決めていたレース。
そこでスタート直後に転倒。

普通に考えれば、もう終わりです。

でも不思議なもので、本当に終わったと思うと、逆に開き直るところがあります。

もうどうにでもなれ。
でたらめでもいいから、やるだけやったろう。

そのときの気持ちは、そんな感じだったと思います。

その日のオートポリスは、前日の雨でかなりのマディでした。

ランキングトップのライダーがスタックするくらい、かなりハードなコンディション。

途中にダブルジャンプがありましたが、深い轍もあって、多くのライダーは飛ばずに走っていました。

でもこちらは、もう終わったと思っている。

順位を守るとか、転ばないようにまとめるとか、そういう考えがもうありません。

毎周、バンバン飛んでいきました。

冷静に考えれば、かなり無茶だったのかもしれません。

ただ、あの日は守るものがなくなったことで、逆に走りが小さくならなかったのだと思います。

走っている途中で、ピットサインの順位がだんだん上がっているのが見えました。

でも自分では、もう終わったと思っている。

だから、何かの間違いだろうと思って、ほとんど気にしていませんでした。

順位を守る走りもしない。
計算もしない。
ただ前だけを見て走る。

そしてゴールしてみると、5位でした。

最下位近くから、25台ほど抜いていたことになります。

その結果、国際A級に上がれるランキングに入りました。

自分の国際A級昇格は、きれいに勝って決めたものではありません。

大事なレースでいきなり転び、
もう終わったと思ったところから、
半分キレたように走って決まったものでした。

もちろん、これはレースの話です。
公道で同じような感覚で走っていい、という話ではまったくありません。

公道では、無茶をしてはいけません。
転んだら終わりでは済まないこともあります。
自分だけでなく、周りの人を巻き込む可能性もあります。

だから、この話を「開き直って攻めればうまくいく」という意味で受け取ってほしいわけではありません。

ただ、結果だけでは見えないものがある、ということは伝えたいと思います。

国際A級という肩書きだけを見ると、簡単にそこまで行ったように見えるかもしれません。

でも実際には、予選4周で帰ることもある世界の中で、何度も跳ね返されながら、最後の最後に泥だらけでつかんだ結果でした。

国際A級に上がってから見えた世界

国際A級に上がれたからといって、そこで何かが終わったわけでもありません。

むしろ、そこからまた別の世界が始まりました。

国際A級に上がってからは、同年代のライバルたちと走る中で、レースのバトルの楽しさを知りました。

ただ一人でタイムを出すだけではない。

前のライダーをどう抜くか。
抜かれたあとにどう返すか。
相手の得意な場所、自分の得意な場所。
スタートからゴールまで続く駆け引き。

それは、それまでとはまた違うレースの面白さでした。

そして同時に、バイクを仕上げることの大事さも知りました。

ただ乗るだけではなく、セッティングを考える。
エンジンの特性を合わせる。
サスペンションを合わせる。
タイヤ、ギヤ比、ポジション、細かな感触。

自分の走りに合わせてバイクを作っていくことが、どれだけ大事なのか。

それも、国際A級の世界で学びました。

もちろん、まったく結果がなかったわけではありません。

九州選手権では国際B級125ccクラスで年間チャンピオンを獲ることができましたし、国際A級に上がってからも、1992年には国際A級125ccクラスの年間ランキングで7位、1996年には全日本モトクロス近畿大会で第1ヒート3位に入ったこともありました。

ただ、自分の中では、それらの結果以上に印象に残っているのは、思うようにいかなかったレースの方かもしれません。

うまくいったレースより、足りなかったものを突きつけられたレースの方が、今の自分には強く残っています。

当時の全日本のトップクラスには、各メーカーのトップライダーがだいたい3名ずついました。

仮に4メーカーで考えると、それだけで約12名です。

レースでポイントが取れる順位というのは限られています。

つまり、そのメーカー系のトップライダーたちだけで、ポイント圏内のほとんどが埋まってしまうような世界でした。

さらに、その下にはセミファクトリーのライダーがいます。
実力も環境も高いレベルにあるライダーたちです。

しかも、その中にはアメリカから来た外国人ライダーもいました。

スタートラインに並んだ時点で、ポイント圏内の席の多くは、すでにメーカー系のトップライダーたちで埋まっているようなものです。

その中に割って入るには、ただ頑張るだけでは足りません。

スタート、体力、テクニック、マシン、セッティング、チーム体制、経験。

すべてが高いレベルで必要でした。

もちろん、それを言い訳にしたいわけではありません。

ただ、国際A級に上がった先には、そういう現実がありました。

自分が思い描いていたほど、トップカテゴリーで安定して結果を出せたわけではありません。

でも、それでも自分にとっては、とても貴重な経験でした。

トップのライダーがどんな走りをするのか。
本当に速い人は、どこが違うのか。
マシンを仕上げるとはどういうことなのか。
レースのバトルとは、ただ根性で前に出ることではなく、技術と判断の積み重ねなのだということ。

そういうものを、目の前で見せてもらいました。

結果は思うように出せなかった部分もあります。

でも、見せてもらった世界のレベルは本物でした。

その経験が、今のYSP大分につながっている

今になって思えば、そんな苦労があったからこそ、今の自分があるのだと思います。

厳しいところで、勉強させてもらいました。

全日本には、本当にすごいライダーがたくさんいました。

地元のコースを知り尽くしたライダー。
ファクトリー入りを狙う若いライダー。
すでに別格の速さを持っていたライダー。
スタートのうまいライダー。
マディで異常に強いライダー。
荒れた路面でもまったく乱れないライダー。

そういう人たちを、目の前でたくさん見せてもらいました。

自分が勝ったとか、負けたとか、
国際A級に上がれたとか、上がれなかったとか、
もちろん当時はそこがすべてでした。

でも今振り返ると、一番大きかったのは、そういう本物のライダーたちと同じ場所で走らせてもらったことだったのかもしれません。

あの世界を見ていなければ、今の自分のバイクに対する見方も、
お客様に話す言葉も、
安全に対する考え方も、
きっと今とは違っていたと思います。

厳しいながらも、今こうしてYSP大分を続けられているのは、あの頃の経験が大きかったのだと思います。

もちろん、バイクショップの仕事はレースとは違います。

販売もあります。
整備もあります。
お客様とのやり取りもあります。
経営もあります。
時代の変化もあります。

楽しいことばかりではありませんし、正直、厳しいことも多いです。

それでも続けてこられたのは、若い頃にモトクロスで厳しい世界を経験させてもらったことが、自分の中の土台になっているからだと思います。

安全運転指導員も、自分ならできるのではないかと思えました。

ただ免許を持っている、ただバイクに乗っている、というだけではなく、
限界に近いところでバイクを動かすこと、
転ぶ怖さ、
判断を間違えたときの危なさ、
その一方で、正しく扱えばバイクがどれだけ自由で楽しい乗り物なのか。

そういうものを、自分なりに体で学んできたつもりです。

だからこそ、安全についても、ただ「危ないからやめましょう」ではなく、どうすれば危険を減らせるのか、どうすればバイクをもっと安定して扱えるのか、そういう話をしたいと思ってきました。

また、バイクのセッティングについても、あの頃の経験は今につながっています。

エンジンの特性。
サスペンションの動き。
タイヤの感触。
ギヤ比。
ライダーの姿勢。
走る場所や目的に合わせて、バイクをどう仕上げるか。

レースの世界で学んだことが、そのまま公道用のバイクに当てはまるわけではありません。

でも、バイクを理解する感覚、乗り手の言葉から状態を想像する力、「この人には何が必要なのか」を考える力には、確実につながっていると思います。

だからといって、自分が何でも分かっているなどとは思っていません。

ただ、あの頃に悩みながらバイクと向き合った時間があるからこそ、お客様のバイクを見るときにも、表面だけで判断しないようにしたいと思っています。

バイクを速く走らせることも、壊すことも、転ぶことも、仕上げることも、悔しい思いをすることも、たくさん経験してきました。

その経験があるからこそ、今もお客様のバイクに向き合うときに、少しでも役に立てるはずだと思っています。

それが、今の自分の土台になっているのかもしれません。

バイクとは何か、まだまだ考えたい

バイクとは何か。

そう考えたとき、最近は「まだまだ考え続けなければいけない」と思うことがあります。

これはライダーに対しても、メーカー関係者に対しても、販売する側に対しても、もちろん自分自身に対しても思うことです。

バイクは、ただの商品ではありません。
ただの趣味でもありません。
ただの移動手段でもありません。

もちろん、楽しい乗り物です。
自由を感じられる乗り物です。
風を受けて、自分の体で操って、道を走る。

その楽しさがあるから、これだけ多くの人がバイクに惹かれるのだと思います。

でも同時に、バイクは命に直結する乗り物です。

ミスをすれば、自分の体が傷つきます。
相手を巻き込むこともあります。
家族、仕事、会社、周囲の人にまで影響が広がることもあります。

だから、ただ「楽しいですよ」「かっこいいですよ」「速いですよ」だけで終わらせていい乗り物ではないと思うのです。

乗る側も、売る側も、作る側も、もちろん自分自身も、まだまだ考え続けなければいけないのだと思います。

「乗れる」と「扱えている」は違います。

大型免許を取った。
電子制御がある。
足つきもいい。
出足も穏やか。

だから大丈夫、とは限りません。

本当に危ないのは、普通に乗れているように感じた先で、急にバイクの本性が出る瞬間です。

加速、ブレーキ、コーナー、雨、砂、疲労、怒り、油断。

そこまで含めて考えないと、バイクを理解したことにはならないと思います。

メーカーにとっては、売れることも大事です。
販売店にとっても、売れることは大事です。

でも「売れる」と「育つ」は違います。

買いやすい。
乗りやすい。
かっこいい。
SNS映えする。

それは大切です。

しかし、その結果として、乗り手が何を誤解するのか。
どんな速度域まで簡単に連れていってしまうのか。
どんな人が買い、どんな場面で危なくなるのか。

そこまで考えないと、本当の意味でバイク文化を守っていることにはならない気がします。

販売店も同じです。

売ったら終わりではありません。

お客様がそのバイクでどう走るのか。
どんな不安を持っているのか。
どこで無理をしそうなのか。
メンテナンスを理解しているのか。
任意保険や装備、安全装備、乗り方まで含めて伝えられているのか。

そこまで考えて、ようやくバイクを売る仕事なのではないかと思います。

バイクは、人を自由にする乗り物です。

でも同時に、人の未熟さもそのまま表に出してしまう乗り物です。

だからこそ、乗る側も、売る側も、作る側も、もう少し考えないといけない。

ただ速い。
ただ楽しい。
ただ売れる。

それだけで終わらせていい乗り物ではないと思うのです。

泥だらけの時間が、今も自分を支えている

人の結果というのは、外から見ると案外きれいに見えます。

仕事でも、スポーツでも、商売でも、趣味でもそうかもしれません。

うまくいった結果だけを見ると、

「あの人はすごい」
「あの人は順調だった」
「自分とは違う」

と思うことがあります。

でもその裏には、本人にしかわからない苦しさや、悔しさや、泥だらけの時間があるのかもしれません。

バイクに乗っている人は、ただバイクが好きな人、というだけではありません。

それぞれの仕事があり、家庭があり、若い頃に打ち込んだものがあり、人には見えないところで積み重ねてきた時間があります。

だからこそ、バイクを通じて話す昔話も、ただの武勇伝ではなく、その人が何を大事にしてきたのかが少し見える話になるのかもしれません。

自分にとって、国際A級という肩書きは、速かったことの証明というより、あきらめきれずに続けた時間の証明のようなものです。

国際A級という肩書きだけが大事なのではありません。

大事なのは、その場所にたどり着くまでに何を経験したか。
そして、その経験を今どう活かしているか。

自分にとって、あの頃のモトクロスは、若い頃の思い出というより、今もYSP大分でバイクに向き合うための土台です。

簡単に見える結果ほど、裏側は泥だらけだったりします。

でもその泥だらけの時間が、後になって自分を支えてくれることもあります。

昔のレースの話を書くと、どうしても自慢話のように聞こえるかもしれません。

でも、自分としては「俺はすごかった」という話をしたいわけではありません。

むしろ、何度も跳ね返されて、うまくいかなくて、それでも考え続けるしかなかった時間の方が、今の自分を作っていると思っています。

バイクに乗っている方にも、それぞれに人には見えない時間があると思います。

仕事でも、スポーツでも、趣味でも、家族のことでも。

結果だけでは見えない苦労や、続けてきた理由がある。

そういう話を、バイクを通じて少し共有できたらいいなと思っています。