安全運転「自分ならできる」は、人に渡せる安全技術なのか

ブログやFacebookでバイクの乗り方について書くとき、いつも考えていることがあります。

それは、ここで紹介する技術や考え方は、できるだけ多くの人が再現できるものでなければならない、ということです。

「あなたならできる」
「マルク・マルケス選手ならできる」
「中須賀克行選手ならできる」

それでは、公道の安全運転として人に渡せる技術にはなりません。

初めてバイクに乗る人。
何十年かぶりにリターンする人。
年齢によって反応や体力に変化を感じている人。
体格や筋力に不安がある人。
まだバイクの操作に自信を持てない人。

そうしたさまざまな人が実践しても、同じように安全へ近づけること。

疲れている日や、体調が万全ではない日にも、できるだけ破綻しないこと。

それが、公道の安全技術を人へ伝えるときの基準でなければならないと思っています。

では、お前はいつも完璧にできているのか

そう書くと、

「では、お前はいつも完璧にできているのか」

という話になるでしょう。

もちろん、そんなことはありません。

私自身も長くバイクに乗ってきた経験から、

「このくらいなら対応できる」
「今は前へ出たほうが安全だ」

と判断して走ることがあります。

気がつけば、前車との距離が近くなっていることもあるでしょう。危険に感じる四輪から離れようとして、少し強く加速することもあります。

実際の交通は、教科書どおりにはいきません。

周囲の車、道路の形、速度、路面、天候によって、同じ動作でも意味は変わります。

ですから、今回は誰かの運転を責めたいわけではありません。私自身への反省も含めて考えてみたいと思います。

自分の経験を使えばできることと、

「バイクはこう乗るものだ」

と、誰にでも渡してよい方法は同じなのか。

そこは分けて考える必要があるのではないでしょうか。

「向こうがそうするから、こちらもこうする」

バイク乗り同士で話していると、四輪との関係について、こんな話を聞くことがあります。

「車間を空けると四輪が入ってくるから、詰めて走る」

「右折車が動きそうなら、先に通過するために加速する」

「四輪の横は危ないから、一気に前へ出る」

「渋滞しているなら、バイクはすり抜ければいい」

どれにも、それなりの理由があります。

四輪が割り込んでくる。こちらの存在に気づかず右折してくる。死角に入れば車線変更で寄せられる。渋滞の中では、熱やクラッチ操作でバイクのほうがつらい。

そこで、

「向こうがそうするなら、こちらもこうする」

という駆け引きが生まれます。

経験のあるライダーなら、周囲の動きを読み、その駆け引きによって危険を避けられる場面もあるでしょう。

ただ、いつの間にか公道が「バイク対四輪」の勝負になってはいないでしょうか。

四輪を入れない。
先に曲がらせない。
横へ寄せさせない。
先に前へ出る。

そのためにバイク側が車間距離を詰め、速度を上げ、逃げ道を失っているとしたら、それは本当に安全な方法なのでしょうか。

四輪を入れない代わりに、何を失っているのか

車間距離を詰めれば、たしかに四輪は前へ入りにくくなります。

しかし、その代わりに失うものがあります。

前車が急に減速したときの制動距離。
前車の向こう側を見るための視界。
横から車や歩行者が出てきたときの判断時間。
路面の砂や落下物を見つける余裕。
そして、緊急時に横へ逃げるための空間です。

前車へ近づくほど、こちらから前方が見えなくなるだけではありません。

対向右折車や横道から出てくる車から見ても、バイクは前車の陰に隠れやすくなります。

こちらも相手が見えない。
相手からもこちらが見えない。

四輪を入れないために、自分の安全余地を使っているともいえます。

割り込まれることは、たしかに気持ちのよいものではありません。

しかし、一台入られたところで、到着時間はほとんど変わりません。

入られないように車間を詰め続けるよりも、入られたら、もう一度車間を作り直す。

そのほうが、経験の差にかかわらず実践できる方法ではないでしょうか。

「自分は止まれる」だけでは足りない

経験のあるライダーなら、

「自分はブレーキに自信があるから、この距離でも止まれる」

と考えることもあるでしょう。

実際、かなり短い距離で止まれる人もいると思います。

しかし、公道で必要なのは、前車がブレーキをかけてから止まる能力だけではありません。

前車の陰から歩行者が出てくるかもしれない。路面に砂やオイルがあるかもしれない。後続車が止まれずに迫ってくるかもしれない。前車を避けた先に、別の四輪がいるかもしれない。

四輪にとっては「少し減速しただけ」でも、すぐ後ろにいるバイクには厳しい急ブレーキになることもあります。

大切なのは、

「自分が止まれるか」だけではなく、
「危険を早く発見できるか」
「避ける方向が残っているか」
「止まったあとも安全か」

というところまで考えることです。

操作技術によって止められる距離と、公道で安全に走れる車間距離は、同じではないと思います。

右折車を止めるための加速が、自分を事故へ近づける

交差点では直進車が優先です。

しかし、こちらが優先であることと、右折車が必ず待ってくれることは別の話です。

右折待ちの四輪が少し動いたとき、

「こちらが先だと分からせよう」
「曲がられる前に通過しよう」

と加速することがあります。

バイクは正面から見ると小さいため、四輪の運転者からは実際より遠く、遅く見られやすい乗り物です。

四輪側が「まだ来ない」と判断したところでバイクが加速すると、相手には急に近づいてきたように見えるかもしれません。

こちらは存在を示したつもりでも、実際には、

  • 衝突地点へ早く到達する
  • 相手の動きを確認する時間が減る
  • 止まるために必要な距離が増える
  • 衝突した場合の速度が高くなる

という結果になります。

相手を止めるための加速が、自分を衝突地点へ運んでしまうのです。

「右折車は出てこないだろう」

ではなく、

「出てきても止まれるか」

を基準に速度を決める。

こちらのほうが、初めて乗る人にもそのまま渡せる安全技術だと思います。

前へ出れば、危険から抜けられるとは限らない

四輪の真横や斜め後ろを長く走るのも危険です。

バイク側から四輪がよく見えていても、四輪の運転者からは死角に入っていることがあります。少しハンドルを切られただけでも、バイクには逃げ場がありません。

ですから、危険な並走状態を早く終わらせる判断は必要です。

ただし、その方法が必ず「加速して前へ出る」である必要はありません。

前方に交差点や店舗の出入口があるなら、減速して四輪の後ろへ下がるほうが安全なこともあります。

危険な位置から離れることが目的であって、四輪より前へ出ることが目的ではないからです。

ところが、公道を四輪との駆け引きとして見てしまうと、「後ろへ下がる」という選択が負けたように感じられます。

その結果、前へ出るための加速しか選べなくなる。

本当は、前にも後ろにも逃げられる状態を残すことのほうが、安全の主導権を持っているのではないでしょうか。

渋滞を抜けると、危険まで先に引き受けることがある

「渋滞しているなら、バイクはすり抜ければいい」

そう考える人もいます。

たしかに、渋滞の中でバイクに乗り続けるのは大変です。

エンジンの熱を受け、クラッチ操作を繰り返し、低速でバランスを取り続けなければなりません。

前へ出れば、そこから解放されます。

しかし、渋滞中の車列をすり抜けて交差点へ近づくと、車列の切れ目から対向右折車が出てくることがあります。

直進するバイク側が優先であっても、右折車からは四輪の陰を走ってくるバイクが見えていません。バイク側からも、対向右折車の動きを早く確認できません。

渋滞から抜けたつもりが、交差点の危険まで先に引き受けることになるのです。

「前へ出たほうが楽」と、
「前へ出たほうが安全」は同じではありません。

問題が起きなかったことは、安全だった証明になるのか

こうした走りについて、

「自分はそこそこ乗れるから大丈夫」
「何十年も、これで事故をしていない」

という話も聞きます。

実際、経験のあるライダーなら、ほとんどの場合は問題なく処理できるのかもしれません。

しかし、物事には想定外があります。

前車が突然止まる。
右折車がこちらを見落とす。
四輪が予想以上に大きく進路を変える。
路面に砂や濡れた白線がある。
別の車や歩行者が、その陰から出てくる。

また、いつもと同じ自分であるとも限りません。

寝不足かもしれません。暑さで集中力が落ちているかもしれません。ツーリングの帰りで疲れているかもしれません。体調が悪く、いつもより判断や操作がわずかに遅れる日もあります。

10回のうち9回、あるいは100回のうち99回うまくいったとしても、残りの1回が重大事故になれば、「今まで問題なかった」では済みません。

それまで問題が起きなかったのは、本当に安全だったからなのか。

それとも、自分の経験と技術によって、その都度うまく処理できていただけなのか。

ここは分けて考える必要があると思います。

その場で何も起きなくても、話はそこで終わらない

少しくらい車間距離を詰めても、自分なら対応できる。

渋滞をすり抜けても、周囲を確認しているから問題ない。

少しくらい前へ出ても、危険がないことは分かっている。

経験のある人なら、実際に何事もなく通過できるのかもしれません。

しかし、その場で事故が起きなかったからといって、話がそこで終わるとは限りません。

その行動を見た誰かが、

「それくらいなら、してもいいんだ」

と思うかもしれないからです。

その人が同じように走る。

さらに、それを見た別の人が、

「バイクでは、これが普通なんだ」

と受け取る。

そうして広がるうちに、最初の人が持っていた経験や判断は抜け落ち、見た目の動作だけが残っていきます。

最初の人は、四輪の速度や前輪の向き、対向車、道路の形まで見ていたかもしれません。

しかし、それをまねする人が、同じものを見ているとは限りません。

さらに次の人へ伝わる頃には、

「渋滞ならすり抜けてよい」
「四輪に入られないよう車間を詰めればよい」
「右折されそうなら加速して先に通過すればよい」

という、単純な動作だけになっているかもしれません。

そして回り回って、経験や技術が十分ではない誰かが同じことをして、想定外に対応できなくなる。

自分が一度した行動と、遠く離れた誰かの事故を直接結びつけることはできません。

ただ、多くの人が「このくらいならいい」と考え、それがバイクの普通として広がれば、どこかで、その普通を信じた人が事故に遭う可能性は高くなると思います。

自分が無事に通過できることと、それをバイクの常識として広めてよいことは、別の問題です。

集団では、先頭の判断がそのまま後ろへ渡る

これは集団で走ると、さらに分かりやすくなります。

先頭のライダーが周囲を確認し、前へ出たとします。

先頭には十分な間隔があったかもしれません。

しかし、2台目、3台目と続くうちに、その間隔は小さくなります。

後ろのライダーほど、対向車や右折車を確認できる時間は短くなります。それでも集団から遅れまいとして、前のバイクについて行こうとします。

先頭の一人にはできても、後ろの全員にできるとは限りません。

10人のうち9人が通過できても、最後の一人が事故に遭うなら、それを集団の走り方にしてよいとはいえないでしょう。

「自分にはできる」という話と、「ほかの人も同じようにしてよい」という話は、まったく別です。

自分の大切な人にも、そのまま教えられるか

誰にでも渡せる技術かどうか。

それを判断する、分かりやすい基準があります。

もし、自分の息子や娘、あるいは大切な人がこれから免許を取り、初めてバイクに乗るとしたら、

「車間を空けると入られるから、詰めて走れ」
「右折されそうなら、加速して先に通過しろ」
「渋滞していたら、すり抜けて前へ出ればいい」

と、そのまま教えられるでしょうか。

自分ではやるけれど、大切な人には「やめておけ」と言うのであれば、それは誰にでも渡せる安全技術ではなく、自分の経験と能力に頼った個人的な判断なのかもしれません。

その判断が必要になる場面をすべて否定するつもりはありません。

ただ、「自分にはできること」と「人にも勧められること」は分けておかなければなりません。

レースと公道では、技術の評価基準が違う

もちろん、マルク・マルケス選手や中須賀克行選手の技術が本物ではない、という話ではありません。

レースでは、ほかの選手にはできないことを実現する技術に価値があります。

限界までブレーキを遅らせ、わずかな隙を狙い、ぎりぎりのグリップを使って誰よりも速く走る。

誰にでも再現できないからこそ、トップライダーなのです。

レースでは、どこまでリスクを背負い、限界へ近づけるかも勝負の一部です。一番を目指すのであれば、それが正しい世界です。

しかし、公道では評価の基準が違います。

レースでは「どこまで限界へ近づけるか」が問われますが、公道では「限界からどれだけ余裕を残せるか」が重要になります。

車間距離を詰めても止まれることより、誰でも止まれる車間距離を取る。

右折車の前をぎりぎりで通過できることより、判断を間違えても止まれる速度にしておく。

四輪との並走状態から鋭く加速して抜け出すことより、前にも後ろにも離れられる位置を選ぶ。

高度な操作で危険を処理するのではなく、高度な操作を使わなくても済むように、先に位置と速度を整える。

それが公道で必要な技術だと思います。

誰にでも渡せることが、公道では本物の技術になる

たくさんの人がバイクに関わるほど、さまざまな経験や能力の人が同じ道路を走ります。

そこで、特殊な技術や高度な駆け引きを使わなければ成立しない方法を、「バイクの普通」にしてはいけないと思います。

公道の安全技術は、初心者でも実行できる必要があります。

疲れているときにも破綻しにくい。
少しくらい判断が遅れても余裕が残る。
相手が予想外の行動をしても対応できる。
体調が万全でない日にも、重大な危険へ直結しない。

もちろん、すべての人がまったく同じように操作できるわけではありません。

だからこそ、操作能力の高さに頼らない方法を基本にするのです。

10人のうち9人が問題なくできても、残りの1人が事故に遭うなら、それを誰にでも勧められる安全運転として伝えるわけにはいきません。

特別に上手な人だけが成功できる方法ではなく、さまざまな人が同じように安全へ近づける方法。

それこそが、公道において人に渡す意味のある技術ではないでしょうか。

「できる走り」より、「失敗しても破綻しない走り」

安全運転で大切なのは、すべてを完璧にこなすことではないのかもしれません。

少し発見が遅れても間に合う。
少し操作が甘くても避けられる。
相手の予想が外れても対応できる。
体調が万全でなくても、危険へ直結しない。

そのための車間距離であり、速度であり、逃げ道です。

割り込ませないことではなく、割り込まれても再び車間を作れること。

右折させないことではなく、右折されても止まれること。

並走した四輪より必ず前へ出ることではなく、前にも後ろにも離れられること。

四輪を思いどおりに動かすことではなく、四輪が思いどおりに動かなかったときにも困らないこと。

これは、初心者向けの消極的な走りではありません。

自分の能力を過信せず、想定外まで含めて交通を組み立てられることこそ、公道における本当の上手さだと思います。

私自身も、それがいつも完璧にできているわけではありません。

だからこそ、自分の走りを振り返るときにも、人へ何かを伝えるときにも、

「自分ならできるか」ではなく、
「これは誰にでも渡せる方法か」

を基準にしたいと思っています。

バイクは、四輪を動かさないように走るのではなく、四輪が動いても困らないように走る。

相手が予想外の動きをしても、自分にはまだ対応する余地が残っている。

そして、初めてバイクに乗る人がそれを見ても、無理なく同じように安全へ近づける。

それこそが、これからバイクの常識として伝えていく意味のある技術なのだと思います。

安全・乗り方・メンテナンス・車種選びなど、ほかの記事もこちらから読めます。